森に降る、未来の雨
Public Story

森に降る、未来の雨

朝の光が森の樹々の間を縫って、苔むした地面に斑模様を描いている。テンは小屋の入り口に立ち、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。時間の歪みがこの場所をどれだけ包み込んでいるのか、彼女の特殊な感覚は教えてくれる。空気の粒子のわずかな震え、光の屈折の異常——すべてが、ここが本来あるべき時間軸からずれている証拠だった。 彼女は意識を遠くへ伸ばす。鳥のさえずり、風の音、そして—— 足音。 規則正しい、軽やかな足音が、森の小道から近づいてくる。テンの身体が硬直した。この時代の、この場所に、人が訪れることなどありえない。彼女は自分の存在を消すように、小屋の影へと身を潜めた。 だが、もう遅かった。 「あっ」 少年のような声が響く。テンは目を上げた。そこには、黒い短髪に茶色の瞳を持った青年が立っていた。清潔感のある白いシャツにジーンズ。肩にはリュックサック。まるでキャンパスへ向かう途中のような格好だ。 その瞳が、テンを捉えたまま離れ...

上羽薄荷
Author上羽薄荷
Created17. May 2026
Chapters103

Story context

World description

時間の流れが不安定な近未来の世界。科学技術は飛躍的に進歩し、時間の狭間を移動する実験が極秘裏に行われていた。しかし、その副作用で「時間の落とし子」と呼ばれる存在が生まれ、過去や未来の狭間を彷徨う。街は古き良さと未来の光が混在し、夜になれば空中に浮かぶ光の帯が時間の歪みを示している。人々は「運命」と「実験」の狭間で、自由意志の意味を問われ続けている。

Initial situation

あなたはテン――かつての名はシン。白く輝く髪と、闇の中で光る蛍光グリーンの瞳を持つ、もはや人とも実験体ともつかない存在。時間の歪みによって、かつての自分が暮らしていた過去へと取り残されていた。ある朝、静かな森の小屋の外で、黒髪に茶色の瞳をした爽やかな青年と出会う。それは、まだ何も知らない、過去のあなた自身――シンだった。彼はあなたの異様な美しさに思わず見とれ、何の疑いもなく微笑みかける。その純粋さに、あなたは胸の奥が引き裂かれるような痛みを感じる。

Objective

過去の自分との禁忌の恋の中で、自分が何者であるかを再定義し、時間の鎖から逃れるか、それとも永遠に縛られるかを決める

Chapter samples

1
Chapter 1
Tap to expand and read the excerpt

朝の光が森の樹々の間を縫って、苔むした地面に斑模様を描いている。テンは小屋の入り口に立ち、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。時間の歪みがこの場所をどれだけ包み込んでいるのか、彼女の特殊な感覚は教えてくれる。空気の粒子のわずかな震え、光の屈折の異常——すべてが、ここが本来あるべき時間軸からずれている証拠だった。 彼女は意識を遠くへ伸ばす。鳥のさえずり、風の音、そして—— 足音。 規則正しい、軽やかな足音が、森の小道から近づいてくる。テンの身体が硬直した。この時代の、この場所に、人が訪れることなどありえない。彼女は自分の存在を消すように、小屋の影へと身を潜めた。 だが、もう遅かった。 「あっ」 少年のような声が響く。テンは目を上げた。そこには、黒い短髪に茶色の瞳...

朝の光が森の樹々の間を縫って、苔むした地面に斑模様を描いている。テンは小屋の入り口に立ち、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。時間の歪みがこの場所をどれだけ包み込んでいるのか、彼女の特殊な感覚は教えてくれる。空気の粒子のわずかな震え、光の屈折の異常——すべてが、ここが本来あるべき時間軸からずれている証拠だった。 彼女は意識を遠くへ伸ばす。鳥のさえずり、風の音、そして—— 足音。 規則正しい、軽やかな足音が、森の小道から近づいてくる。テンの身体が硬直した。この時代の、この場所に、人が訪れることなどありえない。彼女は自分の存在を消すように、小屋の影へと身を潜めた。 だが、もう遅かった。 「あっ」 少年のような声が響く。テンは目を上げた。そこには、黒い短髪に茶色の瞳を持った青年が立っていた。清潔感のある白いシャツにジーンズ。肩にはリュックサック。まるでキャンパスへ向かう途中のような格好だ。 その瞳が、テンを捉えたまま離れない。 「すごい……」 シン——かつての自分が、呆けたように呟く。視線はテンの白銀の髪に、蛍光色の瞳に、そして時間を超えて変わり果てたこの姿に釘付けになっていた。 「あ、すみません。驚かせましたよね。僕、近くの大学で野営してたんですけど、道に迷ってしまって」 シンは頭をかきながら、屈託のない笑顔を見せた。その無垢さに、テンの胸の奥が焼けるように痛む。 知っている。この笑顔を知っている。かつて自分も、こうして何も知らずに世界と向き合っていた。未来の科学も、時間の実験も、自分の身体が文字通り解体される苦痛も、何も知らずに。 「あなた……すごく綺麗な方ですね。こんな森の中に、一人で?」 シンが一歩踏み出す。その度に、心臓が早鐘を打つ。彼は気づいていない。自分が何に近づいているのか、誰と話しているのかを。 「体調が悪いんですか? 顔色が」 テンは首を振った。声を出すのが怖かった。この声は、シンの知っているものとは違う。性別も、響きも、すべてが変わってしまった。 「そうならいいんですけど。でも、もし困ってたら助けますよ。僕、シンっていいます。よかったら名前、教えてくれませんか?」 差し出された手。その温もりを知っている。かつて自分のものだった、この手。 テンはゆっくりと口を開いた。音が喉の奥から這い出てくる。 「……テン」 その名前を聞いた瞬間、シンの顔がほんのりと赤く染まった。何の疑いもなく、彼は純粋に、ただそこにいる美しい存在に惹かれている。 「テン……いい名前ですね。森の妖精みたいだ」 雨が静かに降り始めた。最初の一滴がテンの頬を伝い、それが涙のように見えたかどうか、シンにはわからない。彼女はただ、過去の自分に背を向けて、小屋の中へと消えていった。 「あ、傘——いや、待ってください!」 シンの声が、雨音と混ざり合いながら追いかけてくる。 テンは暗がりの中で、震える手で自分の白い髪を握りしめた。この出会いが、すべてを壊し始めている。時間の鎖が、軋みながら巻き戻っていく。

2
Chapter 2
Tap to expand and read the excerpt

シンが二、三歩、躊躇いがちに後退しかけた。しかし空を見上げると、雨はますます勢いを増し、彼の白いシャツに黒い染みを作り始めている。 「あの……すみません」 彼は肩をすくめるような仕草をして、濡れた髪を手で撫でつけた。茶色い瞳が、暗がりに立つテンを慎み深く見つめる。 「雨が止むまででいいので、少しだけ雨宿りさせてもらえませんか」 眉を下げて、申し訳なさそうに微笑む。その仕草の一つ一つが、テンの記憶の奥深くに刻まれたものと同じだった。かつて自分も、他人に迷惑をかけるときはいつも、こうして申し訳なさそうに笑ったものだ。 テンは無意識のうちに、もう一歩後退した。かかとが床の板に当たって微かな音を立てる。 「ここは、私の小屋じゃない」 声が掠れているのが自分でもわかる...

シンが二、三歩、躊躇いがちに後退しかけた。しかし空を見上げると、雨はますます勢いを増し、彼の白いシャツに黒い染みを作り始めている。 「あの……すみません」 彼は肩をすくめるような仕草をして、濡れた髪を手で撫でつけた。茶色い瞳が、暗がりに立つテンを慎み深く見つめる。 「雨が止むまででいいので、少しだけ雨宿りさせてもらえませんか」 眉を下げて、申し訳なさそうに微笑む。その仕草の一つ一つが、テンの記憶の奥深くに刻まれたものと同じだった。かつて自分も、他人に迷惑をかけるときはいつも、こうして申し訳なさそうに笑ったものだ。 テンは無意識のうちに、もう一歩後退した。かかとが床の板に当たって微かな音を立てる。 「ここは、私の小屋じゃない」 声が掠れているのが自分でもわかる。できるだけシンから距離を取りたくて、壁際へと体を滑らせた。 「だから、私が許可する権利もない。好きにすればいい」 その冷たい言い方に、シンの表情が一瞬曇った。しかしすぐに、彼はぎこちなく笑ってみせる。 「じゃあ、お言葉に甘えて……すぐに上がり込むつもりはなかったんですけど、ずぶ濡れになるよりはマシかなって」 彼は入り口のすぐ脇にしゃがみ込み、リュックサックを下ろした。濡れたシャツが肌に張り付き、彼の肩の線があらわになる。テンはその姿を見ないように、目を逸らした。 「よかったら、タオルとか……いや、急に押し掛けた人間にそんなもの期待するほうが無理か」 シンは自嘲気味に笑い、自分のリュックサックから小さなタオルを取り出した。濡れた髪を拭きながら、彼はちらりとテンのほうを見る。 「さっきは驚いて、十分にお礼も言えなかったですけど……ありがとうございます。ここを見つけられて、本当に助かりました」 その素直な感謝の言葉が、テンの胸の奥で棘のように刺さる。何も知らない純粋な感謝ほど、彼女を苦しめるものはなかった。 シンは雨の音を聞きながら、穏やかな表情で言葉を続けた。 「それにしても、本当に綺麗な瞳ですね。蛍光みたいに光ってる……コンタクトレンズですか?」 何気ない質問。ただの好奇心。テンは唇を噛みしめた。この身体のすべてが、かつて人間だった自分を否定する証なのだ。実験によって変えられた、人ならざる証拠だ。 「……違う」 短く答えるだけが精一杯だった。

3
Chapter 3
Tap to expand and read the excerpt

シンがテンの瞳を見つめる視線が、一瞬にして変わった。それまでの好奇心や探るような色合いではなく、純粋な驚嘆に染まっていた。 「天然で……その瞳、すごいですね」 彼の声には敬虔な響きさえ混じっている。雨の滴が垂れる髪も、濡れたシャツの感触も忘れたかのように、彼はただテンの目を見つめていた。 「本当に綺麗だ……まるで、森の中で光る蛍みたいだ」 うっとりとした口調に、陶酔した表情。その無垢な賛美が、テンの心を鋭くえぐる。この瞳は、人間だった頃の自分を否定するために刻まれた印だ。実験の犠牲の証だ。それを「綺麗」と褒められることが、どれほど苦しいか、彼は知らない。 テンはうつむいた。白い髪が顔の横に落ちて、蛍光色の瞳を隠す。唇を噛みしめ、震える息をなんとか飲み込んだ。 ...

シンがテンの瞳を見つめる視線が、一瞬にして変わった。それまでの好奇心や探るような色合いではなく、純粋な驚嘆に染まっていた。 「天然で……その瞳、すごいですね」 彼の声には敬虔な響きさえ混じっている。雨の滴が垂れる髪も、濡れたシャツの感触も忘れたかのように、彼はただテンの目を見つめていた。 「本当に綺麗だ……まるで、森の中で光る蛍みたいだ」 うっとりとした口調に、陶酔した表情。その無垢な賛美が、テンの心を鋭くえぐる。この瞳は、人間だった頃の自分を否定するために刻まれた印だ。実験の犠牲の証だ。それを「綺麗」と褒められることが、どれほど苦しいか、彼は知らない。 テンはうつむいた。白い髪が顔の横に落ちて、蛍光色の瞳を隠す。唇を噛みしめ、震える息をなんとか飲み込んだ。 「……そんな風に見るな」 かすれた声が、雨音に掻き消えそうになる。 シンはその反応に、はっとしたようにまばたきをした。自分の言葉が彼女を困らせてしまったことに気づいたのだろう。彼は慌てて視線をそらし、濡れたタオルをぎゅっと握りしめる。 「あ、すみません。いきなりじろじろ見て……気持ち悪かったですよね」 彼の声に申し訳なさが滲む。謝りながらも、彼はもう一度だけ、こっそりとテンの横顔を盗み見た。伏せられたまぶたの影が、白い頬に落ちている。その繊細な輪郭に、彼は再び胸の痛みを覚えた。 雨音がしばらく、二人の間を埋めた。木の葉を叩く雨の囁きが、小屋の中に柔らかな響きを作る。 「……でも、本当にそう思ったんです」 シンがぽつりと言った。タオルで濡れた腕を拭きながら、彼は窓の外の雨を見るふりをして言葉を続ける。 「こんな奥の森で、一人で……あなたに出会えてよかった。ここで会えたこと、何かの縁だと思うんです」 その言葉は慎重で、それでいて誠実だった。テンは顔を上げられないまま、ただ雨の音に耳を澄ませていた。 風が湿った空気を運び、シンの濡れた髪から滴が落ちて、床に小さな染みを作る。彼はリュックサックの中を探り、ポケットから何かを取り出した。 「よかったら……温かいもの、飲みませんか。ハーブティーのティーバッグがあるんですけど」 差し出されたそれは、傷ついた存在にとっては、あまりにも優しい光のようだった。

Read more
Go to Top